石山寺

石山寺

大本山・石山寺境内内図参照・・聖武天皇の勅願により天平勝宝元年良弁僧生によって開碁され、暦朝の尊崇あつい由緒ある寺院である。内陣は、平安中期,外陣は淀君の修補になるもの。・・本尊観音は勅封になっている.堂内「源氏の間」は紫式部がが源氏物語を書いたところと伝えられている。本堂下のお堂は蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と伝える蓮如鹿の子の小袖を安置している。多宝塔は美しい均斎美をもった鎌倉期の建築であり鐘楼・大門は共に鎌倉初期の建立になるものである。境内野の奇岩は、いわゆる石山のなの出た石で硅灰石からなり天然記念物に指定されている。・・・石山寺境内図参照‥外陣には蜜蔵院・源義平かくれ谷・源氏苑・光堂当時の様子が伺える。

三日目9時・石山寺に到着見学・・10時より琵琶湖博物館見学予定写真は石山寺本堂横にある、寺に由緒ある紫式部像

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琵琶湖博物館‥(湖と人間・・参照・滋賀県立博物館・・1F水族館・(淡水の生き物たち)・・琵琶湖にはヨシの生えた岸辺や,内湖、、水の深さあ70m以上もあり広大な湖です。①琵琶湖の魚たちとそのすみか②琵琶湖のさまざまな生き物③川や池の生き物水辺の鳥④日本の淡水魚⑤⑥⑦世界の湖野魚たち⑧・・1Fディスカバリール-ム①~⑱・・・体験コーナー・・ザリガニになった気分で魚を捕まえてみよう。・・水の中にいるいろいろな生き物たちをさがしてみよう。・・昔を再現したオバーチャンの台所。2F展示室・・琵琶湖のおいたち・・二億五千万年前からの自然環境の変遷(スライド紹会)・・・・人と琵琶湖の歴史・琵琶湖の湖底遺跡・古代の琵琶湖・湖上交通の発達・琵琶湖の祭り・治水利水への取り組み・・C・・湖の環境と人びとのくらし・①琵琶湖盆地の自然・・②~⑩パンフレット参照

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宇治平等院

平等院・

平等院は永正7年(1052)年関白藤原頼通によって開創され、鳳凰堂はその翌年の天喜元年(1053)年阿弥陀如来(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)として建立されました。.その他にも、平等院には、大和絵風九品来迎図(国宝)梵鐘(国宝)鳳凰1対(国宝)・特に11世紀の仏像郡としては唯一残る雲中供養菩薩像52体(国宝)は、いずれも雲に乗り様々な楽器を奏で舞うなど伸び伸びと繊細に彫利上げられています。鳳翔館には梵鐘・鳳凰1対・雲中供養菩薩像26体様々な宝物を保存・・極楽浄土の宮殿をモデルにした鳳凰堂は、中堂・左右の翼廊・尾廊・からなる建物で堂内には平安時代を代表する仏師定朝の作である唯一の仏像、本尊阿弥陀如来像をはじめ、雲中供養菩薩像52体、9通りの来迎を画いた壁扉画など平安時代浄土教の頂点が集約されています。・・絵図参照

10月19日天候に恵まれ二日目15時より16時まで庭園を散策本日は大津泊まり。明日は石山寺・・琵琶湖博物館見学予定

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奈良・東大寺・大仏

東大寺本堂

22年10月19日二日目本堂・その境内にあの有名な二月堂・その横に三]月堂がならび立派な建物です。

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奈良・東大寺の本堂内にある大仏

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法隆寺・本堂・夢殿・五重の唐22年10月19日

法隆寺22年10月19日

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法隆寺の本堂

法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建造物として広く知られています。用明天皇が自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを請願されましたが、その実現をみないままに崩御されたといいます。そこで、推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています)であると伝えられています。現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍にわけられています。広さ約18万7千平方メートルの境内には飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、たくさんの宝物類が伝来しています。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも190件、点数にして2300余点に及んでいます。法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として1400年に及ぶかがやかしい伝統を今に誇り、1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産に初めて登録され佛教文化の宝庫として注目を集めています。・南大門・・法隆寺の玄関にあたるこの門は永亨10年(1438)に再建されたものです。中門及び回廊(飛鳥時代)深く覆いかぶさった軒、その下の組物ヤ勾欄、それをささえるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めた物です。重厚な扉と左右に立つ塑像の金剛力士像(奈良時代)は、東西にのびた回廊の連子窓と対照的な組み合わせで並列して建つ塔と金堂を壮麗に包みこんでいます.。金堂(飛鳥時代)法隆寺の本尊を安置する聖なる金堂です。聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)太子の父君用明天皇のために造られた金銅薬師如来坐像(飛鳥時代)母君穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来像(鎌倉時代)それを守護するように樟(クス)で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が邪鬼の背に静かに立っています。そのほか木造吉祥天立像・羅紗門天立像(平安時代)が安置されています。五重塔(飛鳥時代)を参照大講堂(平安時代)経蔵(奈良時代)鐘楼(平安時代)上御堂(鎌倉時代)西円堂(鎌倉時代)‥拝観コースからはずれた西院伽藍の小高い丘に八角造りの円堂があります。

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夢殿・・22年10月19日・二日目

聖徳太子・・厩戸(うまやど)皇子、つまり聖徳太子は敏達天皇の3年(574)に生まれ史上初の女帝推古天皇のために19歳のときに摂政にになったが、当時は皇室の主導権がまだ確立されていないため、政情は常に不安定であった。大和朝廷内部の豪族間の勢力争いが主な原因で、特に蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏の対立が大きく表面化、太子が蘇我馬子と連盟して守旧派の物部氏を滅ぼしてからは、開明派の曽我氏の勢力が皇室に対抗するほどの強さになぅていた。しかし太子は蘇我氏と結んで大陸文化の摂取につとめ、殊に仏教文化を盛んに吸収しようとされている。曽我氏が建立した法興字に対して、太子が法隆寺を建てられたことは、皇室が正式に仏教にかたを入れたことになり、当時の最新の大陸文化を太子が取り入れたことが・・近代化にほかならなかった。・・夢殿は(奈良時代)西暦601年に造営された斑鳩宮跡に行信増都という高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院といいます。その中心となるこの建物が夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘佛救世観音像(飛鳥時代)を安置しその周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿を修理された道詮律師の朔像(平安時代)なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と回廊にかこまれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための伝堂としてふしゃしい神秘的な雰囲気を漂わせています。

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法隆寺五重塔

(飛鳥時代)塔はストゥーパともいわれ釈尊の遺骨を奉安するためのものであり,佛教寺院において最も重要な建物とされています。この最下層の内陣には飛鳥時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維魔居士と文殊菩薩が門答,北面は釈尊が入滅、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法などの場面が表現されています。

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信貴山全景・羅沙門天王道碑・羅紗門蓮王堂

信貴山・全景

大和国信貴山は羅紗門天王が日本で最初に御出現になった根本霊場です。今から1400年前聖徳太子がこの地において物敵物部守屋討伐を祈願された折寅をお供にされた羅紗門天王が出現され戦勝の秘法を授けられたところです。・・・その日が寅の年・寅の日・寅の刻でありました。・・・そこで太子は、この山を信ずべき山,貴ふべき山として信貴山と名つけられました。

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羅紗門・天王道奥の院に通ずるところにある・羅紗門天道碑です。

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羅紗門天堂・・22年10月19日

信貴山の中腹にある羅紗門天堂・・自ら信貴山と名付け羅紗門天王の尊像を刻み守護神としてお祀りになったところで羅紗門天堂に祀られています。

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信貴山のゆわれ・羅紗門天王堂入口・羅紗門天王堂参道

信貴山のゆわれ・大和国信貴山はラ毘沙門天王が日本で最初に御出現になった根本霊場です。今から千四百年前聖徳太子がこの地いおいて仏敵部守屋討伐を祈願されたおり虎をお供にされた羅沙門天王が出現され戦勝の秘法を授けられました,奇しくもその日が寅の年,寅の日寅の刻でありました。そこで太子は此の山を、信ずべき貴ぶべき山として信貴山と名図けられ自ら羅沙門天王の尊像を刻み守護神としてお祀りになりました。羅紗門天王の尊像によろいかぶとを召されておられるのは、世の中のあらゆるじゃま者を退散してやるから心強く持ってどんな苦しい困難に出会ってもがまん強い精神と慈悲の心を持って何事も行えということを教えておられるのです。又右手に如意宝殊の棒を持っておられるのは、心ある者には金銀財宝を意のままに授け家運隆盛、商売繁昌させてやるぞとの思し召し左手の宝塔はこの世の中に充満する福を信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印デス爾来信貴山羅紗門天王は七福神のなかでも商売繁昌金運如意,開運招福心願成就の霊験あらたかな福の神として広く信仰され出現の日時に因み聖徳太子にあやかって寅が三つそろうと三寅の福といい羅紗門さんのご利益が得られ縁起がいいとされています。

羅沙門のゆわれ・・22年10月19日

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信貴山参道・22年10月19日

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羅紗門天道参道・22年10月19日

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奈良・信貴山(根本霊場)奥の院・信貴山城祉の碑

信貴山朝護孫子寺・・奥の院・信貴山の頂上 

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信貴山城址

信貴山の中腹にある信貴山城址・・・・

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信貴山観光ホテルと平城遷都1300年

信貴山観光ホテル22年10月18日

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平城遷都1300年祭第一極殿

10.18日奈良・平城京遷都1300年晴天に恵まれ会場見学・朱雀門・第一次朝堂院・南門広場を通り抜け・第一次大極殿前庭を通り・第一次第極殿ここを見学・平城宮資料館見学・交流広場・平城京歴史観・遣唐使船復元施設をけんがく・約4時間・広すぎてすべてを、見学するには、一日かかります。遺構展示館・現在も遺跡を掘っています。最後には1300年前の容姿が見られることでしょう。・当日はホテル泊まり。記念すべき一日でした。向かって左に資料館があり今まで発屈した資料が展示してあります。右側では盛んに古墳を発屈しています。すぐ隣は第二大極殿の後があるようです。将来古墳の発屈が終われば1300年前の平城宮が再現されられるでしょう。

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第一大極殿

大極殿の御座

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朱雀門

遷都1300年祭会場の広場にある第一大極殿に入る門を朱雀門と呼ぶ‥此の門を通って第一大極殿の広場を通り壮大な第一大極殿行く広大な広場の右では盛んに遺跡の発屈をしています。左には資料館があり古墳を展示してあります。

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復元遣唐使船と・復元使船の主舵・中心主帆マスト・網代帆(前部)

復元遣唐使船・遣唐使の使命

遣唐使は,大使・福使のほかに、留学生・留学僧・通訳・技術者・船員・などで構成。。当時世界で最も進んでいた唐の政治制度や仏教、技術、学問、を学ぶため海を渡りました。帰国した遣唐使たちは、その知識を政治や文化に役立てて、平城京の国つくりに大きな影響を与え真下。・・渡航回数・・遣唐使の派遣は630年の犬上御田鍬に始まり894年に菅原道真が停止するまで20回企画されました。しかし実際に唐に渡ったのは15回。天候不順で中止になることがありました・・渡航コース・・航路は北路と南路がありました。前半は北路が中心後半は南路が中心でした。この時代は磁石や海図がないため、星や太陽の位置を手がかりに唐をめざしました。・・遣唐使船の緒元‥前長:30m、全幅9.6m、排水量:300トン、積載荷重:150トン

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遣唐船の復元主舵

波檮を超えて~遣唐使の航海・・752年唐を目指す吉備真備立ち。苦難の末に到着した唐の長安では皇帝との謁見や鑑真和上の招聘など多忙の日々をすごしました。中でも真備の大切な目的は旧友阿部仲麻呂との再会とその帰朝・・幾多の苦難を乗り越えて、国つくりに結実した遣唐使・・・・・

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復元遣唐使船の主帆

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 網代帆・・復元遣唐船の前部の網代帆の説明

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平安京年表

西暦574年敏達3年、聖徳太子生まれる・・585年敏達14年太子の父用明天皇即位586用明元年・用明天皇、法隆寺及び薬師佛の造立を発願・587年,蘇我馬子、聖徳太子らとともに物部守屋を滅ぼす、用明天皇崩御、・・588年、宗峻元年,宗峻天皇即位・・593年推古元年推古天皇即位聖徳太子、皇太子、(摂政)となる。601年、太子、斑鳩宮を造る。607年推古15年・・太子法隆寺を建立、用明天皇のために薬師如来像を造顕・622年、推古30年太子堯去(書記では推古29年)・・643年皇極。・・645年~648年大化元年・大化の改新~4年。・・~650年~651年白雄・・670年天智9年、4月30日夜半法隆寺災679年天武7年・688年~705年持統・706年慶雲708年・710年平城京に遷都~717年和銅・718年~726年727年神亀729年~749年天平       法隆寺年表参照

平安京年表794年平安京に都を遷す。・810年、平城上皇・平城遷都を計画するが失敗。

864年・このころ平城旧京のあたりは田畑となる。・・1180年・平重衛らが奈良へ侵攻し、東大寺、興福寺,元興寺などを焼く。1185年・東大寺を再興する。

鎌倉時代・・・・室町時代・・・戦国時代・・・江戸時代・・となる。・・・・年表参昭  

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